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NOVEL AIR【net-novel-1】


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リレー小説『ラスト・フォーティーン』のページです。
本作は2001年11月3日〜2002年7月8日に渡って、週刊連載されたものです。
本作品に対する、ご意見、ご感想等は、「BBS2」に書き込みしてください。
執筆陣⇒諌山裕/水上悠/森村ゆうり/大神陣矢/皆瀬仁太
【設定・紹介ページ 】【各話人気投票】【キャラ人気投票】


第十一節「RE:突然のメール失礼いたします」返信  

【Writer:水上 悠】


 タブレットの脇にペンを置いたところで、メールの着信を告げる音が初秋の明け方の冷たい空気に満ち始めていた空虚な部屋の中に響いた。
 彼は椅子を回し、背後にあるメール端末にしているノートパソコンの液晶モニタに目を転じた。
 わずかな液晶のちらつきの中に、またイメージの断片が見え隠れしたような気がしたが、具体的な意味は浮かんでは来なかった。
 未読三通。
 すべて、スパムメール。反射的にそれらをゴミ箱に放り込むと、二日前に届いたメールがスレッドのトップにくる。

『突然のメール失礼いたします』

 同じタイトルのメールは週に数通は届く。あとは「はじめまして」とか「ホームページ拝見しました」とか。
 毎日のように届くスパムメールに比べれば、そうしたメールが届くことじたい、自分がやっていることが幾人かの人にとって意味あることだという証明ではあったが、喜び勇んで返事を書くようなことは、もうなくなっていた。
 メールの内容は見なくてもだいたいはわかる。
 絵のことを素直に褒めてくれている内容ならまだいい。そこに「共感しました」とか「衝撃を受けました」とか来ると、本気でそう思ってくれているのか怪しくなる。
 最悪なのは、「あなたと同じイメージを見ることがあります」というものだ。
 返事を書かずにいる二日前のメールは、それに近い意味合いの内容が書かれていた。
 あらかじめ用意してある、当たり障りのない「メールありがとうございました」という返事を送ってしまおうかと、一読した時は思ったのだが、そうしようとした瞬間に見えたイメージのせいで、返事を出来ずにいた。

『前略
 メールありがとうございます。
 拙作「ある終末」を気に入ってもらえたようで、嬉しい限りです。
 まさか、中学生のあなた(あなたたちと書いたほうが正しいのでしょうか?)に気に入ってもらえるとは思いもしませんでした。
 お尋ねの件ですが、わたしが視える(見えるというのとは少し違いますので、視えるとあえて書かせてもらいます)、いろいろな物事に関しては、残念ですが説明のしようがありません。視えるのだから仕方がないと、投げやりな言い方しかできません……』

 いったい何を書こうとしているのだろうと、そこまでタイプしたところで手を止めた。
 中学生を相手に終末への期待を裏切られたと同時に、あの恐怖から開放された自分について言い訳じみたことを書いてどうしようというのか?
 それとも、終末の風景がまだまだこの先にもあるのだということを告げようとしているのだろうか?
 まさか中学生が「ある終末」と題した絵に興味を示してくるとは思いもしなかった。
 いまどきの中学生が「終末」などに興味があるのだろうか?
 親や周りの影響で、ノストラダムスの大予言くらいは知っているだろうが、何事もなく、平然と過ぎてしまった前世紀の終わりに、なんの空虚さを感じることなく、新世紀の到来を喜んでいたはずだろうに。
 それとも、自分が勝手にそう思いこんでいるだけだろうか?
 ノストラダムスの預言。ヨハネの黙示。
 世の中が終末の予言に沸き立っていた頃、中学生だった自分にとっては、ああした終末の風景は、大人になることへの恐怖と同等か、それ以上のものに思えたものだ。
 一九九九年、七の月。
 甘美な魅惑をほのかに秘めた、滅びへと導く、五行詩の一節。
 その詩の本当の意味を知ることができるという期待がわずかにあったことは否定できないが、恐怖のほうが大きかった。
 アメリカはソビエトと目に見えない戦争を続けており、西と東を分けるヨーロッパのどこかで戦争がはじまれば、核ミサイルを発射するボタンが押され、すべてが終わる。そうしたことがすべて現実だった。
 それがどうだろう、ブレジネフ以降、ソビエト共産党書記長がめまぐるしく入れ替わり、ゴルバチョフが書記長に就任したあたりから、恐怖に満ちた世界の様相は変わりはじめていた。
 まさかベルリンの壁が崩される光景をこの目で見ることになるとは……。ベルリンに住んでいる人たちほどの喜びと感嘆ではないにしても、茫然とテレビを見ていたのを今でも覚えている。そうやって冷戦は終結を向かえた。
 バブル全盛の頃は、大学とバイト先との往復に明け暮れ、世の中の動きなど少しも興味なかった。さすがに湾岸戦争がはじまった時は、終末への予感が頭をもたげたが、呆気ないくらい簡単に(最初からわかっていたことだが)アメリカの勝利に終わり、すぐそこに見えた終末は、またしても消えた。
 バブルが弾けるちょうど一年前に就職できたことは、幸運だったのかどうかわからない。
 自分の人生に、あまり意味を見いだせないでいたことだけは確かだった。
 そして、二〇〇〇年問題で、多少浮き足だった感じはあったが、何事もなく新世紀を迎えた。
 二〇〇〇年の元旦に味わっていた空虚は、いまでも思い出したくはない。
 だが、あの日以来、おかしなモノが視えるようになっていた。

 はじめに視えたのは、巨大なコンクリートの構造物ががれきの山となった光景だった。サイレンの音、逃げまどう人々の悲鳴、怒り、恐れ、そして血のにおい。
 あとになって、阪神大震災の高速道路が倒壊した映像に似ていることに気付き、虚脱感のあまり、記憶がおかしくなっているのだろうと、あまり気に病まないようにしていた。
 だが、イメージの断片はその後も突発的に襲ってきて、浅い眠りを邪魔されたり、人込みのど真ん中でめまいに倒れそうになったり、日常生活に支障をきたすようになった。
 友人の薦めで、精神科医のカウンセリングも受けたが、軽い躁鬱症だろうと診断されただけだった。
 病院から出た瞬間、二つの高い塔からのぼる煙のイメージが脳裏をよぎった。
 そのイメージが襲ってきたときは、意味など知りようもなかった。
 無我夢中で絵に描き上げたこのイメージが、現実の光景になったのは一年後のことだ。
 おそらく、このメールを送ってきた彼等もテレビで見ていたはずだろう。
 もしかすると、彼等にとっては、あれが終末の風景に思えたのかもしれない。
 先のことを一瞬でも垣間見ることが出来る。
 子供の頃には予知能力に憧れたこともあった。
 それがどうだ。ほんの一瞬でも、先に起こるであろう出来事の断片が見えてしまうというのは、苦痛以外のなにものでもない。
 自分が預言者だなどとは思いたくはなかったが、もし、自分が視たものの意味を、他の誰かが理解してくれるとすれば、大勢ではないにしても命を救うことが出来るかもしれない。
 そう思って描き上げたイメージの断片をサイトにアップするようにしてきた。
 報われているのかどうかはまだわからない。
 もし報われるとすれば……?

『ただ、私が描いているもののすべてが、「ある終末」のように希望のないものだけではありません。近いうちにアップする予定ですが、少しばかり希望のあるものもこれからはアップしていくつもりです。
 偶然かもしれませんが(おそらく偶然ではないと思います)、あなたからのメールを読んだ直後に浮かんだイメージをいま描き上げたところです』

 背後のモニターに映る、少女の微笑みを見る。
 いつどことも知れない黄昏の街。
 生きた街なのか、死んだ街なのかは判然としない。
 少女は振り返り、悲しげな微笑をこちらに向けている。
 だが、その瞳には、はっきりとした意思が感じられた。
 いつまでも終末にこだわっていても仕方がない。
 ノートから離れ、描き上がったばかりの絵にタイトルを付け、保存をする。

「M.E(ミレニアム・イヴ)」

 本当に希望など持てるのだろうか?
 一瞬だけ疑問が湧いたが、すぐにうち消した。

『添付いたしますので、気に入ってもらえると幸いです』

 メールの最後に「くろいまさなお」と署名する。
 そして、メールにファイルを添付し、送信のボタンを押した。
水上 悠 2002/01/14月02:11 [11]


第十節「二十六世紀の肖像」返信  

【Writer:皆瀬仁太】


 寮の窓から差し込む陽が、奥のベッドまで届いていた。いつのまに群れたのか、秋あかねが景色に色を加えている。ついっと線を引くように飛ぶ幾百のその姿にのぞみは目を奪われていた。
(あかとんぼ、か)
 童謡が浮かぶ。郷愁感を誘うメロディと姉が十五才で嫁いでいったという歌詞が少し切なかった。
 のぞみも来年十五才になる。同時に激しい老化がはじまるだろう。老化遅延措置のできないこの時代では、あっという間に肉体の自由は奪われてしまうだろう。遺伝子に手を加え続けて来た人類の、それが末路なのだ。
 その末路を変える。そのために彼女たちはこの時代に来た。歴史を閉ざしてしまう芽ともいえる「ミレニアム・イブ」を見つけ、その芽を摘み取る。これが彼らに課せられた任務だ。それは新しい歴史を創るということであり、破滅を目前に控えた二十六世紀の多くの若者の生きている証でもある。
 何かをせずにいられない――いつの時代にも共通する若者の思いがこのプロジェクトを成立させているのだった。
 だが……。
(もう二カ月になるのね)
 一年にも満たない時間の大半を学園生活に費やすことに果たして意味があるのだろうか?
 それが任務だと自分を偽りながら、楽しんでいるだけなのではないか?
 先日の高千穂涼との一件以来、新たにそんな迷いをのぞみは抱えていた。
 ドンドンと手荒なノックの音がした。ほぼ同時にドアが開かれる。
「のぞみいるか……なんだ浮かない顔して。まあ似合わないでもないけどな」
 達矢だった。相変わらずノックの返事を待たない。いや、ノックをするようになっただけマシなのかもしれない。
「お、あかとんぼ。凄い数だな。疑似体験プログラムのときは四〜五匹しかいなかったもんな。今度、あっちの連中に教えてやろう。ところでさ、ちょっとおもしろい情報を見つけたぞ」
 達矢は言葉を切って、ふふんと笑った。焦らしているつもりだろうが、スポーツマンらしい精悍な顔が「言いたくてうずうずしている気持ち」で輝いている。
「まったく」
 のぞみの頬が緩む。なんとかなる、と端から信じて疑わない達矢は、チームの元気の素だった。
 君のメンタリティはこのプロジェクトにじつによく適合している――光輝がからかい半分で達矢を評した言葉をのぞみは思い出していた。

 学園会長の郷田が、パソコンを彼らの部屋に割り当ててくれていた。この時代の最新機種とのことだが、起動に時間がかかることに彼らは驚いた。
「ノイマンタイプはやはりだめだな。もっとも牧歌的な時代の象徴かもしれないが」
 光輝らしい評価であった。
 そのパソコンがすでに立ち上げてある。どこかのホームページが開かれている。
 光輝と達矢の部屋に四人は集合していた。御子芝は何か調べることがあるとかで当分留守にする、とのことだった。
「情報収集にはやっぱりパソコンだよな。こっちのインターネットなんてまだ大したことないけど、それでもかなりのネタを仕入れられるぞ。光輝がマシン言語体系、完全にマスターしたから、これからはハッキングしほうだいだ」
「そんな簡単なものではないよ」
 光輝は苦笑した。
「まあ、いいってことよ。で、それとは関係ないんだけど、おれが偶然に見つけたページがあるんだ。まず、それを見てくれ」
「もったいぶるわね。早くしなさいよ」
 理奈が口を尖らせる。
「わかった、わかった」
 達矢はマウスをクリックした。
「あら、ずいぶん手つきがさまになってるじゃない。なにに使っておぼえたんだか」
 理奈がからかう。二十六世紀のデバイスにマウスは存在しないのだ。こんな使いにくいもののマスターは光輝にまかせるよ、と達矢はまったくヤル気を見せなかったのだ。
「うるさいな。いいから黙って見てろよ」
 達矢が何度かクリックすると、画面いっぱいに映像があらわれた。
「これって!」
 理奈は絶句し、のぞみも同様に言葉を失っていた。
 荒廃した都市。砂漠化した大地。「ある終末」と題されたそれは、まぎれもなく二十六世紀の新宿の姿だったのだ。

「偶然の可能性は?」
 理奈がまず口を開いた。
「これくらいの絵は想像で描いたっておかしくはないわよね?新宿のビル群は現にいまあるんだし」
「そうね、わたしもそう思うわ。けど……」
「けど、なによ?のぞみ」
「まあ待てよ。もっと、おもしろいことがあるんだぜ」
 達矢が目を輝かせた。自分の発見を説明したくてしかたないのだ。
「このページの作者はさ、どんなときに閃いたとか、いつ書き始めたとか、そんなこともアップしてるんだ。いいか」
 達矢がクリックすると、日記のようなページがあらわれた。
「もしやと思ってこれをたどってみたんだけど。ほらここ」
 そこには、「天啓のように終末の都市の姿が降りてきた。リアルだった」などと書かれていた。
「この日付だよ、問題は。おれたちが忘れようのない日付」
 七月十五日。
 それは彼らがこの世界へ到着した日に書かれたものだったのである。
「ここからの説明は光輝の出番だ。たのむぞ」
 達矢にポンと肩を叩かれ、光輝は肩をすくめた。
「これはあくまでぼくの推測だ」
 光輝はいつもの落ち着いた口調で話し始めた。
「未来から多くの若者たちが過去を目指してジャンプした。だけど残念なことに、あるものは量子レベルの藻屑と化してしまった。さて記憶もひとつの存在であり、それも量子レベルで弾けたとすると」
「……ひょっとして光輝の言いたいのコピー理論?」
 理奈が形の良い細い眉を少し吊り上げながら疑わしげな口調でいった。
 量子レベルで分解された記憶が人の脳を通過するときに、そのコピーを残してゆく、という理論だ。コピーというよりは量子のシンクロナイズと表現するほうが正しいのだが、分かりやすさからコピー理論と呼ばれている。
 が、実験でもなかなか再現性が認められないことと、もともとがテレパシーの説明という超心理学的な分野から提唱されたものであったため、眉唾ものと世間一般には考えられていた。
「ぼくもコピー理論を信じてはいないけど、そう考えると納得がゆく。むしろコピーは未来予知みたいな形で表にあらわれるのはまれであって、潜在的に残るのじゃないかと」
「うーん……。どうかなあ」
「ねえ、仮に光輝が正しいとするとどういうことになるの?」
「のぞみ、そいつは簡単さ。つまりミレニアム・イブなら必ずこういう記憶を持っているはずだってこと」
 達矢が得意気に口をはさむ。
「……どうしてそういう結論になるの?」
「だってそうだろう? どんなことだって絶対どこかにつながってるんだよ。おれたちがここに着いたことだって、もしかしたらジャンプに失敗したたくさんの人だって、歴史を創るための一つなんだ。郷田さんがサポートしてくれておれたちはこの学園にいる。御子芝さんもここへ来た。そういうことの一つ一つが全部ひとつの方向を指しているに違いないのさ」
「その考え方はあながち的外れでもないな」
 光輝が引き継いだ。
「もっともミレニアム・イブのことは、飛躍がすぎるけどね。問題はそうやって未来を織り込みながら、この歴史がどこに向かうかなんだ」
「いい方向に決まってるさ。そのために来てるんだ」
 達矢の言葉に三人は苦笑したが、それは好意的なものだった。
「ま、推測はそれくらいにして、とりあえずこのホームページの作者にメールを出してみよう。なにか分かるかもしれない」
 光輝の提案に反対する者はいなかった。

 過去と未来の因果関係は二十六世紀でもほとんど解明されていない。それが分かっていれば、ミレニアム・イブを探すことはさほど難しくないはずなのだ。
 だが、達矢の言葉はチームに大きな活力を与えた。このままでいいのか? と悩んでいたのぞみも、なにかが吹っ切れたような気持ちになっていた。
 コピー理論が正しいにせよ、間違っているにせよ、ひとつの手がかりには違いないと思うのだ。
 ただひとつだけ、いいそびれてしまったがのぞみが気になっていることがあった。
「ある終末」のアングル、それはのぞみが破れた窓から恐る恐る見下ろした新宿の街そのものだったのである。
皆瀬仁太 2002/01/08火04:56 [10]


第九節「文化祭への道」返信  

【Writer:森村ゆうり】


 九月とはいえ、秋の気配など微塵も感じさせない暑い日が続いていた。
 学園では十月初めに開催される文化祭に向けて、生徒も教職員も準備に余念が無かった。聖天原学園中学校の文化祭は、一般的な中学校の文化祭と比べてかなり立派なもので趣向も凝らさせる伝統がある。
 大学の学園祭程とまではいかないが、下手な高校の文化祭よりは楽しめるため、お客も多い。理事長の方針から、父兄だけでなく地域の人たちにも開放される。
 見学者の内訳は、近隣の人たちは言うに及ばず、聖天原学園に我が子を入学させたい親や予備校や塾の関係者までと多岐にわたる。学園側としても多くの生徒を集めるための宣伝材料の一つとして力を注いでいた。
 おかげで、文化部の顧問を持ってる教師は連日かなり遅くまで学校に残って生徒たちを指導している。
 菅原拓郎もその例外ではなく、料理研究会と手芸部の指導に追われ、おまけにこっそり入れ知恵指導している文芸部のSF好きな生徒の同人誌作りにまで借り出され、身体が三つほど欲しい気持ちが日に日に増していた。
 調理実習室では、料理研究会の生徒十五人と見学者一名が全員出席しての話し合いの最中だった。もちろん菅原も同席している。
 今日は当日の係決めとメニューの最終決定をするための話し合いだが、基本的に教師の菅原は生徒の自主性を尊重し、話し合いに口を出すことはない。調理中や食材選びには大いに口を出すが、他のことは生徒たちに任せているのだ。
「桜井さんは転校生で途中入部だし、まだ日も浅いから、とりあえず一年生の四人と一緒にウエイトレスということでいいかな?」
 三年生で部長の渡が、部員たちに訊く。
「のぞみさんがそれでいいなら……」
 のぞみと同じ学年の栗林里美が言う。
「わたしはその方が助かります。うちのクラス、舞台発表で劇をやるんですけど、わたし脚本担当してて、やっと完成したところなんです。手直ししたりもすると思うし、調理の方の下準備とかあまり手伝えそうにないんです」
「じゃ、この件は終わり。次は神崎君だけど君はもちろんウエイトレスだからね」
 部長は少しにやにやしながら達矢に言い渡す。のぞみの時は、一応、疑問符が付いていたが達矢に対しての発言は肯定の返事しか受け付けないぞという響きがありありと出ている。
「えっ、おれ、ウエイトレス? この世界って喫茶店のお運びさん、男も女もウエイトレスって言うんだっけ?」
「男はウエイターでしょ」
 部長がきっぱりと言いきった。
「んじゃ、おれ、ウエイターだよね」
「いいえ、ウエイトレスよ」
 またまた部長がきっぱりと言う。
 菅原はその様子を見ながら、笑いをかみ殺していた。この渡という生徒は、部長を任されるだけ合ってリーダーとして他の生徒を引っ張っていく力もあり、調理の技術も中三としてはかなりの腕を持っているのだが、妙な趣味を持っているのだ。菅原は料理好きのSFオタクだが、彼女は料理好きのBL(ボーイズラブ)オタクで達矢がのぞみに付き添うように料理研究会の見学に来たときから、絶対入部させて文化祭でウエイトレスの姿をさせようと、手をこまねいて待っていたのだ。
 彼女の野望にうすうすながら気が付いていた菅原だったが、いよいよその時が瞬間がやって来たのである。他人にふりかかるこの手の災難は非常に楽しいものだ。見逃す手はないと、興味津々でことの成り行きを見守っている。
「ウエイトレスって……」
「しばし待たれよ。……じゃない。ちょっと待って」
 見学者一名が声を上げた。
「なんですか、御子芝さん」
 最近、突然やってきた交歓留学生という触れ込みの御子芝樹が発言の主だ。日系人なせいか日本語は極めて流暢である。時々、時代がかった言葉使いをするが、母国で日本の時代劇ドラマを見て日本語を学んでいたせいだという。
 九月も半ばを過ぎたころ、またまた突然二人の交歓留学生がやってきたのだ。一学期末の転校生もそうだが、理事長がからむ生徒の受け入れはいつも唐突だ。普通なら職員である菅原などは、もっと前から留学生受け入れの事実を知らされているべきだろう。
「神崎殿……ではなくて、神崎君は男子ですが、女の姿をさせるということですか」
「その通りです」
 部長はやる気満々だ。
「なるほど……。では、私はウエイター役をやらせていただこうか」
「あら、御子芝さん、素敵なアイディアね。御子芝さんならウエイター姿、凛々しくていい感じになりそうだし」
 部長を煽るような御子芝の発言に、菅原は堪えきれずとうとう吹き出してしまった。生徒の数人がそれに気づいて、菅原の方をちらちらと視線をおくっている。
 その視線には教師なら笑ってないでなんとかして下さいよ。の気持ちが詰まっているようだ。
「あのう。それじゃあ、わたしもウエイター姿の方がいいのかしら?」
 のぞみが遠慮がちに訊いてくる。
「桜井さんはウエイトレスがいいのよ。絶対、その方が似合うから。世の中、向き不向きがあるのよ」
「はあ……」
 樹とのぞみではどう違うのか、のぞみには全く理解できなかったが、部長の言葉には他者に有無を言わせない力があった。
「じゃ、おれもウエイターの方が……」
「ウエイトレス!! 桜井さんと神崎君に似合いそうなウエイトレスのコスチュームももう用意してあるし、大丈夫よ」
 何が大丈夫なんだか不明である。
「渡、文化祭は有明のイベントじゃないんだからな。まぁ、しかしだ」
 そろそろ口をだすころ合いだろうと、笑いながら傍観していた菅原が動きを見せた。
「面白い案だと思う。どうだ、神崎。そんなにウエイトレスは嫌かい?」
「はあ。嫌というか、想像できないというか……」
「なにごとも経験だ。嫌でなければやってみるといい」
 達矢にしろのぞみにしろ、未来からやって来た彼らにとって、その言葉は説得力がある。
 破滅的な未来を変えるために自分たちができることは、何でもしなければならないという使命に燃えてこの二一世記にやって来たのだ。一見ばかげたことのように感じることでも、巡ってきたチャンスは全て自分たちのものにしていかなくては、未来を変えることなど到底できはしないだろう。
「分かりました。おれ、やります。ウエイトレス」
「決まりね。今年の文化祭は楽しくなりそうだわ」
 一人悦に入っている部長の渡をしり目に、他の部員たちは早くメニュー決めに移りたいと心底思っていたのだった。

 料理研究会の話し合いがお開きになった調理実習室に残っていた菅原の元へ、転校生の二人と交歓留学生がやって来た。
「どうした?」
 神妙な顔つきで自分に近づいてくる生徒三人に向かって菅原が言った。
「渡部長って、いったいどういう人なんですか?」
「おれ、渡部長は優しくて料理上手な先輩だって思ってたんですけど……」
「物の怪にでも取り憑かれたような勢いであったな」
 三人は口々に今日の渡の様子に付いて話はじめる。
「まぁ、落ち着いて。とにかく座って、コーヒーでも飲もうよ」
 菅原は調理実習室の奥にある家庭科教官室へ三人を案内して、休憩時間に飲むためのコーヒーを三人にも振る舞ってくれた。
 コーヒーの良い香りが教官室いっぱいに広がると、落ち着いた雰囲気が生まれてくる。
「君たちは、外国で暮らしていたらしいからあまり知らないのかもしれないけど『オタク』って言葉、聞いたことないかな」
「聞いたことはあります」
 達矢が答えた。
 三人は、二一世紀を訪れるために受けたシミュレーションの中で、その言葉を聞いたことが合った。シミュレーションの中では、一つのことに拘りを持ち探求し極めた人たちのこと指していたが、長い時間の経過に連れ言葉のもつ意味やニュアンスが変わってくることは充分考えられる。シミュレーションはシミュレーションでしかなく、現実とは違うものなのだ。
「彼女は、そのオタクなのさ。この一言で片づけられるのは、渡も不本意だと思うけどな」
 菅原は自分も椅子に座り、コーヒーを飲みながら話を続ける。
「僕もオタクだから彼女の気持ちが分からなくもない」
「えっ、菅原先生も女装趣味が……」
 のぞみが心底驚いた声をあげた。
「オタクにもいろいろ合って、僕はSFが好きなのさ。この部屋みて、そう思わなかった?」
 三人はぐるりと教官室を見渡した。家庭科の教材の他にも沢山の本やDVD、天球儀に正体不明の機械もどきが所狭しと置かれている。
 技術・家庭科の常勤教師が一人しかいない学園だからこその私室化だ。
「宇宙とか未来とか科学とか……。僕が心引かれるものをいろいろ置かせてもらってる。DVDは被服室のスクリーンで見ると迫力なんだぞ」
 菅原は力を込めていった。
 その姿は、確かに先ほどの渡の様子に少し似ているかもしれない。
 三人は思う。
 もしも自分たちが未来からやって来たことを知ったら、菅原はどういう反応をするのだろうか。菅原の好きだという、SFを地で行っている存在の自分たちが負っている使命に付いて話したら、どんな言葉をくれるのだろう。
 現実には語ることのできない自分たちの身の上を話して、力になって欲しい。そんな気持ちが三人の胸に沸き上がる。
「とにかく、渡には悪気はないし、優しく料理上手なのも事実だ。オタクは巧く使えばいろいろ役に立つことも多いもんだよ」
「役に立つ?」
「そう、普通、知らないようなことまで知っていたり、思わぬ特技を持っていたりな。渡はきっとコスチューム自分で作ってるはずだぞ。彼女は洋裁も得意だからな」
 菅原は笑いながらそう言った。
 役に立つ。
 それならば、未来をも変えてくれたりはしないのだろうか。
 漠然とそんな思いが彼らに去来する。どんな可能性にでも縋り付きたい彼らの必死さが痛々しい。
 三人の手に握られたマグカップからは、熱いコーヒーの湯気が立ち昇っては、教官室の空気と同化して消えてゆく。それはまるで、全く掴むことができない手がかりのようだった。
森村ゆうり 2001/12/31月03:04 [9]


第八節「妖剣・胡蝶陣」返信  

【Writer:大神 陣矢】


「行くのか」
 そう声をかけられ、足を止めて振り向いたのは、少壮の若武者だった。
 無骨な面体に憂愁の色をたたえた巨漢の姿をみとめ、ふ、と口元を緩める。
「ああ。もう、この地に用はないゆえ」
「勿体ないことをする。貴様ほどの遣い手なら、その腕だけでも身を立てられように」
「措け、佐平次。御手前の剛力にはおよばぬよ」
「それはさもあろうが、貴様の太刀筋……あれは神業よ。咒樂斎の『胡蝶陣』なからずんば、彼奴を討つこともまたかなわなかったろう」
 過分な賛辞だ、と笑って、咒樂斎と呼ばれた若者はやや声を落とす。
「剣術使いの時代はほどなく終わる。いや、もうとうに終わってはいるのだけれど。いずれは御手前も、剣を捨てねばならぬ日が来よう。……その日までに、先の思案を忘れぬことだ」
「莫迦な。俺は……どうあれ、剣のみで渡って見せる」
「まあ……良いさ。御手前は御手前の道を行け。私もそうするゆえ」
「そうか……」
 佐平次はさびしげにつぶやいたものの、じきに気を取り直したように、
「それなら……最後に、貴様の妙技を見せてくれ」
「タダで?」
「歌を贈ろう」
 はは、と咒樂斎は相好をくずした。
「先生の送辞を頂けるとは光栄」
「風流を知らぬ貴様には惜しいがな」
「げにも」
 ずらり、と抜刀した太刀を下段に構える。……
「“うつつなき”……」
 佐平次が、懐から扇を放る。
「“胡蝶の夢に”……」
 さらにもう一枚、二枚と放り上げる。
「“妹(いも)を見て”……」
 太刀が、跳ね上がる。
 ごう、と一陣の風がうねった。
 瞬きひとつ終えたのち、宙をひらひらと舞うそれらはもはや扇にあらず、無数の蝶へと変じていた。
「見事!」
 莞爾と破顔した佐平次だが、すぐに瞠目した。
 咒樂斎の身が、忽然と失せていたのだ。
「……返歌もなしに去るとは、つくづく、不粋よな」
 秋風が蝶の群れを吹き散らし、すべてが視界から失せるまで、佐平次はその場から離れることなく、立ち尽していた。
「……というわけで、けっきょく、ふたりの恋は実らないまま終わるわけなの」
 うっとりとした表情をうかべる桜井のぞみに、綾瀬理奈は呆れたような視線を送る。
「ずいぶん長い前振りだったわねぇ〜……ンで? それがどうしたってのよ」
「だから、今度の、お芝居……」
「ああ、演劇ね……」
 間近に、文化祭が迫っていた。
 2人のクラスは演劇をやることに決まり、のぞみはその脚本を書くことになっているのだ。
 そこで郷土の文献などをあさっているうちに、野史に残された『胡蝶陣・久遠咒樂斎』の物語をエピソードを舞台化しよう、ということになったわけである。
 史料によれば、久遠咒樂斎は幕末の人で、剣の達人。当時近来にはびこっていた盗賊団を壊滅させ、人々の難儀を救ったと伝えられる。そのとき一五歳で、以後の消息は不明。
「もっと無難なのがいっぱいあるでしょーに……」
「うん、それはそうなんだけど。なんとなく、ピピッと来たんだよね。この人……咒樂斎さんって、風のように現われて、風のように去っていった……なんだか、儚い人」
 それに、とのぞみは続ける。
「数えで一五歳だったっていうのも、ポイントかな。それって、要するに現代なら一四歳ってことでしょ?」
 なるほど、自分たちと重ね合わせているわけだ、と理奈は合点する、
「まあ、あまり史料としては重要視されていないけどね。でも、ロマンがあるよね……」
「ロマンねぇ」
「うん。こういう強さが、ほしいと思うよね……」
 んなことより、あたしたちには優先することがいっぱいあるんだけどねぇ……とぼやきつつも、理奈は話を続ける。
「まいいや……あんたはちゃんと脚本仕上げてよね。あたしはちょっと出てくるし」
「え? どうするの?」
「買い出し。芝居となると、なにかと必要だからね」
「一人で大丈夫?」
「ん、あいつら連れてくから問題なし」
「なるほど」
「んじゃ、がんばってよね」
「うんっ、感動的なラブストーリーに仕上げるから期待してて」
「ラブ……?」
 ふと風に当たりたくなって、のぞみは寮の裏手にある木立に足を向けた。
(難しいものね……)
 舞台の脚本の件だ。引き受けてはみたものの、思いのほかてこずっていた。
 演劇と言う芸術については、十分な知識をもっているつもりだった。わからぬことがあれば、古今東西、いやそれどころか『未来の』演劇にまつわる情報すら参照しうるのだ。
 だが、『知っている』ことと、それを『生かす』ことは、おのずと別のことである。
(そういえば……)
 くだんの久遠咒樂斎にかんする文献の中に、彼が語ったと伝わる述懐があった。
 『私はものごとを知ることで、そのものごとを理解したつもりになっていた。しかし、それは驕りであった』というのだ。『歌を知っていても、歌を唄えるとはかぎらぬ』と。
 わたしたちのことのようだ、と自嘲気味にのぞみは考える。
 これから先、どのように歴史が進んでゆくか、わたしたちは知っている。
 だが、それだけだ。
 その歴史を覆し、よりよい方向へ導くための手段……それは、現時点では皆目、見当がつかない。
 あるいはこのまま、自分たちは何も為せないまま、時は過ぎてしまうのかもしれない……そんなふうに考えてしまうことも、しばしばだった。
 ついには、
(いっそ……この時代でなければ良かったのに)
 別の時代へ飛ばされていれば、いっそ気楽に過ごせたものを……と、思わないでもない。
 そこに至って、のぞみは頭を振った。
(ダメダメ……こんなこと考えてるようじゃ、みんなに迷惑かけるだけ……)
 そう思い、作業に戻ろうと、歩き出した……その、直後。
「……っ!?」
 言いようのない戦慄が、彼女を襲った。
 それは、単なる物理的なエネルギーではない、もっと別の気配……
(……まさか……これは……DPT(ディメンジョン・プロパビリティ・テレプレゼンス=時空確率転送機)ッ!?)
 彼女が振り向くのと、小規模ながら劇的なエネルギーの渦が巻き起こったのは、ほぼ同時。
 次の瞬間には、さきほどまで存在していなかったものが、そこに存在していた。
「あ……」
 のぞみは息を呑んだ。
 それは、血にまみれた着物姿の、腰に刀を佩いた若者だった。
 綾瀬理奈は駈けていた。
 ひとつには、買い出しに思いのほか時間がかかってしまったので、急いでいたのがひとつ。
 もうひとつは……
(のぞみ……)
 別れ際に垣間見せた、彼女の寂しげな表情。
 『強さが、ほしい』いう言葉。
 時が経つにつれ、それはより大きな比重をもって、理奈の心を占めていた。
 チームである四人のなかで、のぞみはもっとも繊細な性格だ。そりゃ、自分や光輝、達矢だって人並みに傷ついたり落ちこんだりもするけれど、のぞみは……何というか、真面目すぎるところがある。
 それは美点でもあるが、度が過ぎればマイナスにしかならない。
 まさかとは思うが、思いつめたあげく、何らかの形で暴発しないとも限らないのだ。
 だから、荷運びは男子ふたりに任せて、こうして帰りを急いでいるというわけだった。
(思い過ごしなら、それでいい……)
 と、いっそう足を速めようとしたとき。
「そこの娘」
 ふいに、凛とした声で呼び止められた。それも、娘、ときた。
 急いではいるが、いちおう立ち止まってしまうのも無理からぬところ。
「すみませんけど、あたし……」
 急いでるんです、と言いさして、理奈は口を閉ざした。
 それは、路地裏から現われた声の主が、あまりにも異質な風体だったからにほかならない。
 束ねた長髪、すらりとした体躯、色白の面貌……年のころは理奈と同じかやや上ていどか、なかなかの美少年……いや、美少女? であったが、彼女の言葉を奪ったのはそれが原因ではない。
 上下の着物姿。これはまあいい。足に目をやれば草鞋履き。これも、まあなんとか見逃せないこともない。
 が。
 腰に佩いているのは、あれは、刀……ではないのか?
(ゲイシャ!? ……いや、サムライ!?)
 理奈が古代(いや、この時代からすれば近世・中世だが)に存在したという特殊な階級の名を思い出すのと、それが二一世紀には存在しえないものである、ということに気づくまでに約1.05秒。そして結論を出すまでにはさらに0.05秒。
 結論。こいつは変な奴だ。かかわってはいけない。
 視線を反らし、走り去ろうとした彼女の足を止めさせたのは、鯉口を切る音だった。
「頼みがある。聞いてくれるか」
「……人にものを頼む態度じゃないわね」
 と毒づきつつも、理奈の視線はわずかにあらわとなった白刃に向けられる。
 あれがまがいものだという保証は? いや、たとえ竹光だって、殴られれば痛い。
 ここはどうやら、素直が一番らしい。
「服を脱げ」
「ヤだ」
 素直撤回。
「案ずるな。タダとは言わぬ……この着物と交換といこう」
「そ、それにしたってねえ! そんな……」
「ふむ……あまりのんびりともしていられないのだがな……この時代、この格好は目立ち過ぎる」
 ずんばらり、と抜き放たれた太刀が不気味に光る。重そう。
「ああ……何が悲しくて、二一世紀くんだりまで来て、ゲイシャに追い剥ぎに合わなきゃいけないのっ!?」
 ことの理不尽さに、思わず声をあげてしまう。あらためて確認すると、異常すぎる状況だ。
「『二一世紀に来て』……?」
 怪訝そうな追い剥ぎゲイシャ。そりゃそうか。
「ああもう、勝手にすりゃいいでしょ! 欲しいなら、こんな制服ぐらい……」
「『DPT』……」
「……へっ?」
 いきなり追い剥ぎゲイシャの口からそんな言葉を聞いて、理奈はリボンをほどきかけていた手を止めた。
「『DPT』利用者か?」
「なっ……なんで、知って……っ」
 やはりな、とつぶやいて、追い剥ぎゲイシャは刀を収めた。
「あやうく、『同胞』の身包みを剥ぐところだった。赦せ」
「はあ……えっ!? ってことは、あんた……も?」
 いかさまさよう、と追い剥ぎゲイシャ……は、もういいか……着物姿の若者は答えた。
「私もまた、時の導きにはぐれた流れ者よ……」
 少年は、高千穂涼(たかちほ・りょう)と名乗った。
 もっとも、その名はもうずっと使っていないがね、とも付け加えた。
「どうして……?」
 のぞみはひとまず、彼をひとけのない体育倉庫に連れ込み、治療に当たっていた。
 『関係者』である以上、公的機関を用いるのは問題があったし、何よりこの負傷は怪しまれる。
 さほど重傷でもないこともあり、のぞみが自前の医療キットで応急処置を施したのだ。
「それは……ぼくが、敗残者だからさ」
「え……」
 涼の話はこうである。……
 彼はのぞみたち同様、DPTで過去に飛んだ若者のひとりだった。
 しかし、彼を含むチームはジャンプに失敗、予定よりもはるかな過去に飛ばされてしまった。
 『最初』は、どうやら平安時代だったらしい。
「最初って……?」
「ぼくたちは、異なる時代にたどり着いたものの……それでもなんとか、生き延びようと努力していた。その矢先だ……」
 到着から数ヶ月後、突如彼らはまた別の時代……おそらくは鎌倉か南北朝時代……へと飛ばされてしまったというのだ。
「まさか……そんなことが!?」
 起こったのさ、と自嘲気味に涼。
「おそらくぼくらは、体質……というよりも、存在そのものの『確率性』が変異してしまったのだろう。つまり、この時代に存在する確率が、つねに100%にならないということだ」
 そのためか、周期的にジャンプを繰り返し、いくつもの時代を行ったり来たりしているのだという。
「幸いというべきか、その振り幅は数千年単位に収まっているようだがね……」
 二六世紀からやってきたのぞみにとってすら、にわかには信じ難い話だった。
 事実だとすれば、それは……想像するだに、苛酷なことだ。
「大変ですね」
 などという慰めの言葉も、かけられない。
「そういえば……他のチームの方は……」
 涼は押し黙ったまま、答えない。
「あ……すみません、わたし……」
「いや……いいんだ。ある者は戦争に巻き込まれ、あるいは疫病に倒れ、……自ら死を望んだ者もいた」
 ぼくは運よく……いや、運悪く、生き延びているだけさ、と涼は弱々しく笑った。
「そんな……あの! もしかしたら、わたしたちが、力になれるかも……」
 ムダだよ、と涼は手を振った。
「ぼくは、このまま……ずっとこのままなんだ。そして……すべては、無に還る」
「でも、そんなこと、わからない……」
「わかるのさ」
「え……」
「わかってるんだよ。ぼくは……」
 涼の目に、暗い炎が宿る。
「……ぼくは、人類の最期を、見てきたのだから」
「……と、まあ、かいつまんで言えばそういうことだ」
 御子芝樹(みこしば・いつき)と名乗った少女の話を聞き終えた理奈たちは、うう、と唸った。
 終わりなきジャンプ。繰り返される時間移動。
 しかも、いつ失敗し、量子の海に還るかもわからないのだ。
 あらためて、自分たちの幸運さを痛感する。
(それにしたって……追い剥ぎはないわよね)
(追い剥ぎはな〜、ちょっとな〜)
(ふふ……追い剥ぎとは穏やかでないが……それはそれで……)
「……何か言いたそうだな」
 いえそんなことは、と三人は口をそろえた。
「ま、苦労ではあったが……おかげでさまざまな体験もできた。悪いことばかりではないさ。こいつの遣い方などは、知りたくもなかったが」
 この人は、と理奈は痛感した。……強い。
「ところで……『私だけ』か?」
「え?」
「私のような境遇の人間を、他に知っているか? ということだ」
「いや……あなただけですが」
「ふむ……」
 樹は腕を組み、顔をしかめた。
「まずいな」
「何がです……?」
「私には『連れ』がいるのでね……」
 何度目のジャンプかは憶えてもいないが、と前置きして、涼は話しはじめた。
「あれは、二六世紀よりもやや後……もはや滅びの日を間近に控えた人類は、荒廃した地球に還り、終わりの日を待ちうけていた。しかし彼らは、押しつぶされそうな絶望に耐え切れず……ついには……みずから……」
「そ、そんなっ……」
「わかるだろう? ぼくやきみたちが、どれだけ手を尽くそうが……ムダなんだよ。人類は滅びる。だったら……ぼくらが何かをなしたところで何になる?」
「それ……は……」
 だから、と涼は続けた。
「ぼくは、人生を楽しむことに決めたのさ。……どうせ、明日とも知れない命だ。辛いことは考えず、楽しく生きたほうがいいじゃないか?」
 のぞみは、答えられなかった。
「なあ、ぼくと行かないか? 無為な使命なんかに、残された時間を費やすことはない……どうせなら、人生を謳歌しないか?」
「…………」
 涼の差し伸べた手に、のぞみの手が、重なり……
「……ぐっ!」
 鈍い音。涼が苦痛の表情とともに手を引く。
 足元には、扇……
「それくらいにしておけ、リーダー」
 涼のまなじりに、ドス黒い憎悪の色が映える。
「……御子芝ッ!!」
 駈けつけた理奈たちが見たのは。のぞみと彼女に寄り添う着物姿の優男、
 そしてそこへ、抜刀した樹がゆるゆると間合いを詰めてゆく。
「のぞみ!? そいつから離れてっ!」
「え……えっ!?」
 と、電光石火の挙動でのぞみの背後に回った涼が、彼女の喉元に小太刀を突きつけた。
「のぞみっ!? ちょっ……何やってんのよあんたっ!?」
「動くなっ……悪いね、のぞみちゃん……きみを利用して」
 呆れたような表情で、樹がいう。
「相変わらず、つまらぬ真似をするな。そんなに、小悪党呼ばわりされたいのか」
「好きに言っていろっ……さあ、のぞみちゃん……行こうか? 来てくれるね?」
「わ……っ、わたし……は……」
 小刻みに震える、のぞみの肩。
「のぞみとやら」
「!」
 丹田から放たれた、凛然たる声がのぞみを打つ。
「そやつから何を吹きこまれたかは、だいたい見当がついている。もし、貴様が『楽に生きたい』のなら、そやつに従うのもよかろう」
 だが、と樹は両の眉を跳ね上げた。
「『楽しく生きる』ことと『楽に生きる』ことは、同じではないぞッ」
「っ…………」
「運命から逃げるなら、すべてはムダだと信じて投げ出すなら、それもよかろう……だが、私は……運命とは計り知れぬものと信じている。われらが見た『人類の最期』も……あれがすべての結末とは限らぬのだから」まなじりを決する樹。
「ゆえに私は逃げはしない。いかに苛酷なさだめであろうと、みずからの手で切り開き、悔いなく生きぬき……天運尽きれば、倒れるのみだ!」
「わ……」のぞみの肩の震えが、止まる。
「わたしは……っ!!」
 のぞみの頬を、風が撫でた。
「ぎゃ……っ!!」
 駆け出しかけた涼が、扇で撃たれ、悶絶していた。
「奴はあの通り……人々に破滅のビジョン、破局の恐怖を語ることで、現世の利益を無為なものと感じさせるのが常套手段でね……ペテン師としては上々だ」
「はぁ……」
 涼を捕縛したのち、一同は学園長室でことの次第を報告がてら、樹の話に耳を傾けていた。
「先の時代でも,同じような真似をしていたっけな……幕末の話だが」
「え……!? ひょっとして……それって……そのときの樹さんの名前って」
「あぁ? 『久遠咒樂斎』と名乗っていたよ」
「……っ!」
「それで」と、郷田がいった。
「これからどうするのだね?」
「ま、この時代に辿り着けたのも何かの縁だろう。しばらく、御手前たちの世話になるとしよう」
「はぁ……」
「あの……」
「うん? ……ああ、貴様……きみか。何か用か?」
「すみません、その……わたし……」
「……気にするな。高千穂のあれは芸のようなものだ。惑わされても、恥とはいえぬ」
「いえ……でも、たしかに、わたしも……迷ってたんです。だから……」
「今は……どうだ」
「…………」
 ふ、とほほ笑んで、樹は振り返った。その視線に、返事は聞くまでもないと悟ったがゆえに。
「あのっ!」
「まだあるのか」
「あの、……佐平次さんへの、返歌は?」
 樹は立ち止まり……そして、いった。
「『“交わす邯鄲 探すでもなく”……』」
「意味は……?」
「いっしょに使う枕を、探す気はないってことさ」
 片手を上げて立ち去る樹を見送りながら、のぞみは、
『脚本、書き直しかな……』
 そう、考えていた。
大神 陣矢 2001/12/24月11:57 [8]


第七節「運命の選択」返信  

【Writer:諌山 裕】


 厚い強化プラスチック窓を通した漆黒の視界の中、白地に青と茶のマーブル模様の球体が横切る。
 地球だ――。
 それはリング型コロニーの自転に合わせて、見かけ上の運動をしている。地球と月との重力の平衡点――ラグランジュポイントから見る地球は、頼りないほどに小さく見える。
 多様な生命を宿した青い地球、といわれていたのは過去のこと。極地の氷が溶けて海面が上昇し、面積を広げた海。海に浸食された大陸は、大半の緑を失って褐色の地肌をむき出しにしていた。
 陸地でつながっていた大陸は孤立し、勢力を広げた海からは大量の水蒸気が立ち上り、巨大な雲の塊を作りだしている。見かけは穏やかだが、渦を巻いた雲の下は嵐になっているはずだ。いまや人類の故郷は“白い地球”と呼ばれていた。
「アンドルー! ここにいたのか」
 目を細めて白い地球を見あげていたアンドルーは、想いを現実に引き戻された。彼はサラサラの金髪を掻き上げる仕草をして、うしろを振り返った。
「ゲーリー、でかい声で呼ぶな」
 駆けよるゲーリー・ブッシュは、肉づきのいい体を弾ませていた。頭にはトレードマークである、ニューヨークヤンキースの野球帽のレプリカをかぶっている。
 ゲーリーのあとから、ふたりの少女がゆっくりと歩きながら続いた。少女たちは、ときおり笑いながら小声で会話をしている。
 快活な笑い声をあげるのは、アフリカ系アメリカ人のジャネット・リーガン。カールした赤毛と肌の露出の多い服装で、はち切れそうなプロポーションが見るものの目を引く。
 一方のキャサリン・シンクレアは、華奢な体に腰まである長い金髪がキラキラと輝き、清楚な妖精のようだ。
 ふたりの少女はまったく正反対のイメージだったが、相性はよかった。
 窓際に立つアンドルーを中心にして、彼らは向きあった。四人とも一四歳になったばかりだった。
「会議を途中で抜けだしちまって、いいのか? 退屈なのはわかるけどよ」
 ゲーリーは肩をすくめていった。
 彼らはアジア・セクター管轄のコロニーで行われている、DPT国際会議に参加していた。
「結論は出たのか? オレのいう結論とは、オレたち、アメリカ・セクターに有益な結論ということだが」
 アンドルーは片眉をあげ、首を傾げて仲間を見る。
 ゲーリーは首を振った。
「いいや。議論は平行線だ。まだすったもんだやってるよ。アジア・セクターが強気なんだよ。奴らが持ってる情報を出し渋ってる。時空確率転送機(DPT)テクノロジーでは、アジア・セクターが半歩先いってるからな。交渉の切り札を手放したくないのさ」
「ふん。そんなことだろうと思った。どうせ、しつこく月の領有権の復活を要求してるんだろう? 先のシム戦争で勝ったのはオレたちなんだ。取り返したければ、正々堂々と宣戦布告しろっての」
「同感だぜ。紛争解決で現実の戦争する代わりに、シミュレーションで戦争してんだ。あいつら勝てる見込みがないから、今回の会議で交渉条件に出してる」
「じゃ、やるのね?」
 ジャネットが口をはさんだ。
 アンドルーは口の端を持ちあげる。
「そうだ。決行する。準備はいいか?」
「もちろん」ゲーリーは自分の胸を叩いた。
「はい」キャサリンは控えめにコクリとうなづいた。
 彼らは行動を開始した。

 けたたましい警報が鳴り響いた。
 同時にコンピュータボイスが警告を発する。
《侵入者警報! シグマブロックに不正なアクセスがあります。警告! 警告! システムがハッキングされています》
「キャサリン! 早くドアを開けろ!」
 アンドルーは怒鳴った。彼の手には小型の麻痺銃(マイオトロン・ガン)が握られ、足下には倒れた人間がいた。麻痺銃から放たれるビーム状の放電は、運動神経と視床下部に作用し、筋肉を麻痺させるのである。死にいたることはないが、数時間は身動きできなくなる。
 キャサリンは歯を食いしばって意識を集中していた。彼女の長い金髪の一部が、セキュリティパネルのデータノードへと伸びている。それは髪の毛に偽装した、神経インプラントのケーブルなのだ。彼女はシステムにアクセスして、厳重なセキュリティのかかったドアを開けようとしていた。
 彼女は量子コンピュータの支配する量子空間へと、“意識”を滑りこませていく。処理スピードでは、人間の脳は量子コンピュータにはかなわない。しかし予測不能な人間の意識の方が、優位な場合もある。彼女は押しよせる津波のようなデータ流を、波に乗るサーフィンの要領でかわしながら、目的のノードへと近づいていく。
 彼女に迫る波は、悪魔のような形相に変貌して襲いかかる。悲鳴をあげそうになる彼女は、必死に攻撃を回避しながら、ポイントを目指した。
「キャサリン!」
 遠くからアンドルーの声がきこえる。彼の声は彼女を元気づけたが、システムの悪魔は彼女を四方から追いつめようとしていた。
「あと、もう少し!」
 彼女は意識の擬体の手を伸ばす。感覚的にポイントはほんの数センチ先だった。だが、なかなか届かない。
 ドロドロとした粘着質の液体が、彼女の髪に絡みつき、自由を奪おうとしていた。液体はさらに触手を伸ばして、彼女の体にまとわりつく。
 量子空間で孤軍奮闘するキャサリンは、苦しげにあえいだ。彼女の意識の表現である擬体は、衣服をはぎ取られていく。それは彼女の防壁であり、裸にされることは無防備になることを意味していた。
 キャサリンは意を決して、自ら衣服を脱ぎ捨てて裸になった。
 一瞬、彼女の戒めがゆるんだ。すかさず、セキュリティノードに手を触れ、破壊ウイルスを注入した。
 次の瞬間――彼女は触手に絡みつかれていた。
「キァアアア――――!!」
 彼女は悲鳴とともに昏倒した。
 しかし、ドアは開いた。
 アンドルーは気絶したキャサリンを片手で抱きかかえて、中に転がり込む。
 室内には怯えた顔をした研究者が数人いた。アンドルーはためらうことなく、麻痺銃を撃った。さらにゲーリーは部屋の奥へと駆けこんで銃を乱射し、ストロボのような閃光が何度も光った。閃光が消えると、ゲーリーは手招きする。
「ゲーリー! ドアをロックしろ!」
「おおっ!!」
 ゲーリーは閉じたドアの制御系に、麻痺銃の放電を浴びせた。火花が飛び散って、ドアの機能は焼き切れて壊れた。
「ジャネット! ここのシステムをメインフレームから隔離するんだ!」
「あいよ!」
 アンドルーはキャサリンを抱きかかえて、占拠したコントロールルームへとはいる。そして彼女を椅子に座らせた。
 警報はよりいっそう大きな音で反響していた。
「このうるさい警報を止めろ!」
 突然、警報は沈黙した。
「キャサリンの放ったウイルスが、セキュリティのレベル2まで侵食した! システムは混乱しているぞ」
 ゲーリーは拳を振った。
「まだ安心するな。ジャネット、DPTのシステムは隔離したか?」
「手こずってるわ! あたしひとりの手には負えない!」
「代われ! オレがやる!」
 駆けよろうとしたアンドルーの手に、キャサリンの手が触れて引き留めた。
「アンドルー……わたしが……」
 声は弱々しかったが、強い意志が感じられた。
「できるのか? かなりダメージを受けたのだろう?」
「あなたが……守って……」
 キャサリンは微笑んだ。
「いいだろう。オレが盾になる」
 アンドルーはキャサリンの座った椅子を、アーチ型のコンソールの前まで押した。コンソールには色分けされたタッチパネルが並び、左右に直径二五センチほどの黒い窪みがある。
 キャサリンは両手をそれぞれの黒い円の中に置く。背後からアンドルーも手を伸ばし、彼女の手の上に重ねた。
 すると、黒い円は液体のように波打ち、ふたりの手を包みこんでいく。やがてすっぽりと黒い膜に包まれた手は、コンソールから生えているかのようになった。
 ふたりの体はインターフェイスとなっているナノマシンを介して、神経系と量子コンピュータとが有機的に直結されたのだ。
 キャサリンとアンドルーは、量子空間へと意識をシフトさせた。

 量子コンピュータが神として君臨する、量子空間――。
 擬体化したキャサリンとアンドルーは、灯りで彩られた夜の街の上空に浮かんでいた。街のように見えるものは、量子マトリックスのグリッドであり、脳が視覚的に作りだしている幻影である。
「キャサ……」
 アンドルーは彼女を見て、口ごもった。
 キャサリンは裸だったのだ。
 彼女はいたずらっぽい笑みを彼に向けた。
「さっきの接触で、わたしの防壁ははぎ取られてしまったの。ちゃんと守ってね、アンドルー」
「ああ……、わかってるよ。オレのそばを離れるな」
 彼女は彼のうしろにつき、彼の手を握った。アンドルーは一瞬躊躇したが、彼女の手を握り返した。
「あっち」
 彼の肩越しにキャサリンは指さした。
 ふたりは飛んだ。
 量子空間では擬似的に物理法則が適用されて、日常的な感覚を反映させている。しかし、それもユーザーの意識しだいである。無視しようと思えば、物理法則的な観念は省略できる。
 光の街はところどころで灯りが消え、虫食いのように暗くなっていた。ウイルスによって破壊されたグリッドだ。侵食された部分との境界線では、光の明滅が起こっていた。侵食をくい止めようとしている免疫システムとの攻防が繰り広げられているのだ。
「あそこよ」
 高速で飛び続けて、キャサリンの指示で停止したときには、ピタリと静止した。慣性は省略したのだ。
 ふたりの前には、巨大な黒いピラミッドがそびえている。距離の表現は無意味ではあるが、擬体の比較からいえば一辺が数キロメートルはある感覚だ。それがシステムのコアである。
 グリッド面に着地すると、キャサリンは作業に取りかかる。アンドルーは彼女を見守りながら、あたりを警戒する。
 彼女はどこからともなくナイフを取りだす。そして、刃を手のひらに当てて、スッと切った。切った手を握りしめて、血をしたたらせる。
 鮮血――それは彼女のデータの表現だ――は、黒い地面に血溜まりを作っていく。
 彼女はつぶやく。
「いまわたしがあなた達を送り出すのは、羊を狼の中に入れるようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように純真であれ。人々に気をゆるすな。あなた達を裁判所に引き渡し、礼拝堂で鞭打つからである。また、あなた達は私の弟子であるがゆえに、総督や王の前に引き出されるであろう。これは、その人たちと異教人とに福音を証する機会を与えられるためである」
 キャサリンはマタイの福音書、第十章十六節から十八節の言葉をいった。言葉そのものにさしたる意味はないが、起動させるプログラムに暗号化されたパラメータと実行命令を与えたのだ。言い換えるならば呪文のようなものだ
 血は意志あるもののように脈動し、渦を巻きながら、彼女を中心に広がった。それはある図形を形取った。
 円を四つに分割した図形――魔法陣である。
 分割された領域には、それぞれヘブライ語で文字が書かれている。東に守護天使ラファエル、南に守護天使ミカエル、西に守護天使ガブリエル、北に守護天使ウリエル。
 魔法陣はさらに大きく成長し、巨大ピラミッドをその円の中に収めるほどになった。
 キャサリンの手からは血が流れ続けていた。実際に血が流れているわけではないが、彼女の顔は青ざめていく。表情には苦痛が現れていた。
 よろめく彼女の元へ、アンドルーは駆けよった。
「大丈夫か?」
 彼はキャサリンの肩を抱いた。
「こんなに大きな魔法陣は初めてだから……。でも、なんとかなると思う。うしろから倒れないように支えてて」
 彼は彼女のうしろにまわり、両手を彼女の腰に当てて支える。擬体とはいえ、彼女の裸体に触れていることで、心持ち心臓が高鳴った。
《アンドルー! 急いでくれ! やつらがドアをレーザーカッターで開けようとしている!》
 外からゲーリーの声がきこえた。
「もう少しだ! ジャンプの準備を始めろ!」
 アンドルーは短く深呼吸した。
「キャサリン」
「ええ、わかってるわ。うまくいくように、おまじないでもしてて」
 彼は彼女の頬にキスをした。
「おまじないだ。さぁ、やってくれ」
「ふふ、そのおまじない、効いたかも」
 キャサリンは両手を高々と挙げる。
「バズビ、バザーブ、ラック、レク、キャリオス、オゼベッド、ナ、チャック、オン、エアモ、エホウ、エホウ、エーホーウー、チョット、テマ、ヤナ、サパリオウス」
 彼女は低い声で詠唱を始めた。
 やがて、空間が鳴動を始め、血の魔法陣から光が発し始めた。立ちのぼる煙のような光は、徐々に形を整えながら、ピラミッドを包みこんでいく。
 一方、ピラミッドだったものも変容していく。それはおどろおどろしい悪魔の姿を思わせた。
「きたれ、聖なる秩序よりいでしものよ。
 天空を支配し、大地を割るものよ。
 汝、時空を旅するもの。
 闇の敵、光の盟友たる守護者よ。
 静寂を愛し、静寂を破るものにして、炎を凍らせるものよ。
 あまたの世界に秩序と平安をもたらしたまえ!」
 キャサリンの澄んだ声が、量子空間に響き渡った。
 そして魔法陣の光は、ついに姿を顕在化した。それはドラゴン――秩序の象徴だった。
 ドラゴンはピラミッドの悪魔に襲いかかる。炎を吐き、四肢を絡めて、システムのコアをがんじがらめにしていく。
 抵抗するピラミッドからは、無数の突起が伸び、ドラゴンを串刺しにしようとする。
 攻防は一進一退だった。
 ドラゴンに鋭い突起が刺さると、そのダメージはキャサリンにも反映される。腕や足に、次々と刺された穴が開き、血が流れた。彼女は痛みに体をよじりながらも、毅然と立っていた。
 アンドルーは彼女の華奢な体のどこに、そんな強さがあるだろうと驚いていた。彼は少しでも彼女が楽になるようにと、背後から強く抱きしめた。彼女は踏んばっていた体の緊張を解き、彼にもたれかかる。そして、ドラゴンを操ることだけに集中した。
 と、次の瞬間――。
 一本の突起が、キャサリンめがけて伸びてくる。
 アンドルーは彼女を抱いたまま、くるりと体を回した。
 グサッ!――
「あうっ!!」
 彼は悲鳴を押し殺した。槍は彼の背中に刺さっていた。
「アンドルー!」
「大丈夫だ。オレが盾になるといったろ? 続けろ、奴を叩きのめして、手なずけるんだ」
 キャサリンはコクリとうなずいて、深呼吸し、叫ぶ。
「万物の支配者にして秩序の化身よ!
 混沌なる邪悪を打ち砕け!
 闇を光の戒めで封じよ!
 この汚れなき体を御国に捧げる!
 わが名はキャサリン!
 聖なる巫女なり!」
 彼女の体が光り始め、同時にドラゴンも太陽のような強烈な光に包まれた。
 光の圧力に屈するかのように、針のむしろと化していたピラミッドが、徐々に収縮していく。
 彼女とドラゴンの輝きが、正視できないほどまぶしくなる。
 アンドルーは彼女を抱きしめたまま、目をつぶった。彼は光の音をきいていた。それは教会のパイプオルガンのような荘厳な和音を奏でていた。
 やがて、音は残響の尾を引きながら、静寂の幕を下ろした。
「終わったわ……」
 キャサリンは肩で息をしていた。
 アンドルーは目を開けて、ピラミッドを見る。正四角錐の四つの面には、魔法陣にあった守護天使の名前が刻印されていた。そして黒いピラミッドは、大理石のようにまっ白なピラミッドとなっていた。
「あれはもう、わたしたちのものよ」
 彼女は誇らしげにいった。
「よくやった! キャサリン」
 ふたりは量子空間から離脱した。

 肉体に戻ったアンドルーは、即座に立ちあがった。背中に激痛が走る。
「あったた!」
「おい、大丈夫かよ?」
 ゲーリーは心配そうにいった。
「オレの心配よりも、DPTスフィアの方は?」
「セットアップした。あとはキャサリンの手なずけたシステムに座標を設定して、オートパイロットさせるだけだ。ジャネット?」
「やってるわよ。綾瀬チームの座標を基本にして、彼らよりも数ヶ月は早く着きたいんだろ? 難しいのよ、その数ヶ月がね。百万分の一ポイントの差で、誤差が増大するんだから。検算とテストでもっと精度を上げないと……」
 彼女は赤毛を掻きむしった。
「そんなに時間はなさそうだぞ」
 アンドルーは焼き切られようとしているドアを指さした。
「ジャンププロセスのカウントダウンは三〇から始めよう。それ以前は飛ばす」
「無茶苦茶いわないでよ! それじゃ、ほとんどぶっつけ本番だわ!」
「そうだ。このチャンスはもう二度とない。彼らがデータを提供してくれるとも思えないしな。ジャンプを実行する。スフィアに入れ」
 ジャネットは舌鼓を打って立ちあがった。そして弱っているキャサリンに手を貸して、コントロールルームを出ていく。ゲーリーもあとに続いた。
 アンドルーはDPTシステムに起動の指示を入力し、ジャンプ後に自壊する命令を与えた。これでしばらくは使い物にならなくなる。未来からジャンプすれば、時差は問題にならないが、多少なりとも気休めになる置き土産だった。
「アンドルー!」
 ゲーリーがDPTスフィアの入口から、大きく手を振って呼んでいた。アンドルーは走った。
 時空確率転送機(DPT)スフィアは、完璧な球体だ。光の反射率がほぼ百パーセントであるため、周囲の光景を球面に鏡像として映している。その歪んだ鏡は、見ていると目眩を覚え、実体の存在を捉えにくくしていた。直径は十メートルほどだが、その大きさを実感するのは難しい。
 球体は通常の物質でできているのではない。エキゾチック物質――負の物質なのだ。それは通常の物質とは相互作用をしない――つまり、外部からの干渉を受けつけないのである。球体の内部は、外部の世界から完全に隔離される。
 アンドルーはスフィアに走りこんだ。
 ゲーリーが円形の入口を閉じる。入口はしぼむようにして閉じ、始めからなかったかのように、ピッタリとふさがった。
 内部はまったくの無音である。聞こえるのは四人の息づかいだけだった。
「カウントは?」
 アンドルーは静寂から染みだしてくる、緊張感と恐怖感を打ち消すようにいった。
「あと二〇」
 ジャネットは答えた。その声は震えていた。ジャンプに失敗すれば、自分たちの存在そのものが消えてしまうことを承知していたからだ。
「腹減ったな。向こうに着いたら、まず、マクドナルドに行こうぜ。本物を食ってみたい」
 ゲーリーは無理に笑みを浮かべていった。
 ジャネットは眉間に皺をよせて、首を振った。
「牛の死体の肉じゃない! 野蛮よ。あたし、そんなの食べたくないわ」
「慣れるしかないだろうよ。昔は動物の肉が当たり前の食料だったんだ」
 アンドルーは鼻で笑った。
「わたしは……お寿司」キャサリンがいった。
「ゲゲゲー! 生の魚じゃない。みんなゲテモノ好きなの?」
 ジャネットは手を激しく振って、嫌悪感を露わにした。
「食いものの話ばかりかよ? ピクニックに行くわけじゃないんだぞ」
 アンドルーはため息をついた。
「アンドルーだって、口に出さないだけで、いろいろと思惑はあるはずだぜ」
 ゲーリーはしたり顔でいった。
「カウント!」
 話題を打ち切るように、アンドルーは大声を出した。
「一〇を切ったわ。八……七……六……五……」
 全員が息を呑んだ。
「いよいよだな。オレたち……」
 アンドルーが最後まで言葉を発する前に、彼らの肉体と意識は量子的な確率の海の中へと沈んでいった。
 時空を超えて、過去へと――。

「アンドルー?」
「ん?」
「どうしたの、ボーッとして。何度も呼んでるのに」
 キャサリンは心配そうに彼の顔を覗きこんだ。
「ごめん。ちょっと考え事をしていた」
「どんな?」
「ジャンプの時のことだよ。ついつい考えてしまうんだ。オレたちの選択と決断は正しかったのかってね」
「済んだことをあれこれ考えてもしょうがないぜ。というか、まだ起きていないことか」
 ゲーリーは食べものを口に入れたまま笑った。
「これって、けっこう癖になるね。チーズがたまらないわ」
 ジャネットはハンバーガーを頬ばっていた。
 彼らはマクドナルドにいた。ボックス席にテーブルを囲んで四人で座っている。ゲーリーとジャネットは、バクバクと食べることに夢中になっていた。キャサリンはシェイクをすすっている。
 日中はそれぞれに別行動で情報収集をしていたが、夕刻になると、ほぼ毎日こうしてマクドナルドで顔を合わせていた。
 店内には学校が近いこともあって、同じ制服を着た同年代の少年少女が多くいた。近くの学校――私立「聖天原学園中学校」はクリスチャン系の学校であり、在日の外国人も珍しくなかった。制服を着ている生徒の中には、ちらほらと外国人が交じっている。新学期が始まったこともあって、混雑に拍車がかかっていた。
 それでも、彼ら四人は目立っていた。私服であるというだけでなく、存在感そのものが際だっていたのだ。周囲の視線が注がれていることを、アンドルーは感じていた。
「オレたちも、あの学校に入る必要があるな。これでは目立ちすぎる」
「どうやって?」ジャネットがきいた。
「郷田という人物と接触しよう。彼が綾瀬チームをサポートしているんだからな」
「一石二鳥ね。綾瀬チームとも接触できる口実になるわ。向こうはこっちを知らないけどさ」
「それはそれとして、さっさと食えよ。冷めたらまずくなるぞ、アンドルー」
 ゲーリーは三個目のハンバーガーを口に入れていた。
 アンドルーはトレイに載せてあったハンバーガーを口に運ぶ。ジューシーな肉の味と、ソースの味が舌を心地よい感覚で刺激する。
「たしかに……、美味いな……これは」
 彼らはしばしの間、自分たちに課せられた任務や運命のことを忘れ、一四歳のいまという時間を楽しんでいた。
諌山 裕 mail url 2001/12/17月00:53 [7]

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