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第三二節「時のユグドラシル」(前半) 

【Writer:諌山 裕】


“もろもろの聖なる族(やから)、ヘイムダルの貴賎の子らよ。私の言葉に耳をかたむけるがいい。死せる戦士の父なる神よ、ここに、御心に従い、記憶のはての古き世のさまを、語り説きたてまつる。
 遠い世の巨人の族の誕生も、私は忘れない。その上(かみ)に私を育てあげたものこそ、この族。九つの世界、九つの根。また、大地にふかく根をめぐらした大宇宙樹(ユグドラシル)をも私は知っている。
 ユミルの生きていたはるかな昔には、砂も、海原も、つめたい浪もなかった。大地も、上なる天もなく、ふかい淵が口をひらくだけで、草というものも見えなかった。
 やがて、ブルの子らが大地をもたげ、うるわしき中央世界(ミドガルド)を築いた。日輪は南から岩を照らし、大地はみどりの草におおわれた。
 月の友なる日輪は、その右手を南から、天の縁(へり)にかけた。日輪はいまだその家を知らず、星々もいまだその座を知らず、月もその持てる力を知らなかった。
 世を治めるすべての者、聖にして聖なる神々は、裁きの座におもむいて議し、時をはかるため、夜と新月に名を与え、朝と真昼に、午後と夕べに名を与えた。
 イダヴェルにエーシル神はつどい、祭壇と神殿とを高々と築き、鍛冶の炉をおき、金(かね)をきたえ、火ばさみなどもろもろの道具を作りあげた。
 館(やかた)なる神は、たのしげに将棋に興じ、持てるものはすべて黄金でできていたが、それも、巨人族の全能なる三人の娘が、巨人の国からあらわれた時までのこと。
 強くやさしきエーシルの神々三柱は、そのむかし海辺へと足を運び、力もなく運命(さだめ)ももたぬアスクとエンブラを、そこから陸(おか)に見出した。
 それらには息もなく、魂もなく、血の気、身振り、人らしき形もなかったが、オーディンが息を、ヘーニルが心を、ロードゥルが血の気と人らしき形をさずけた。
 とねりこユグドラシルがそびえるのが、私には見える。かがやく霧につつまれ、天をつく樹が。谷間に降る霧はここに生まれ、常緑の樹はウルドの泉のほとりに立つ。
 とねりこの根かたに湧くこの泉から、全知の乙女三人があらわれ出る。一人はウルド、一人はヴェルダンディ、板に文字を彫るのが役目。スクルドをまじえたこの三人は、人の子らに人生を選びわけ、人の世の運命をば定めた。”――――『エッダ〜巫女の予言〜』(松谷健二・訳)より。「中世文学集」(筑摩書房・刊)に収録。

 ベッドに腰かけたキャサリンは、北欧神話を読んできかせた。三つ並べられたベッドの、残り二つには理奈とジャネットが半身を大きめのクッションに預けている。妊娠五ヶ月〜六ヶ月に入った彼女たちは、見た目にも腹部が膨らみ、学校は休学していた。彼女たちの休学の理由は公表されてはいないものの、妊娠したからだということは知れわたっていた。郷田邸の三階の来客用寝室は、彼女たちのための産院となっていた。
 郷田を始めとして立原と菅原も、事情を内密にしようとしていたが、当の彼女たちが喜びのあまり級友たちに公言してしまったのだ。彼女たちには隠すべき問題ではなかったからだ。厳格なカトリックの学園で、彼女たちのことは大きな問題になった。ましてミス・マリアに選ばれた注目の生徒でもあったため、波紋は広がった。教師や父母の懸念とは裏腹に、生徒たちは彼女たちを祝福した。
 聖母マリアも未婚の母ではないか――というのが、子供たちの主張だった。もとよりカトリックは中絶には反対する立場であり、命を尊ぶ教えを説いている。ミス・マリアの妊娠は、聖母マリアと重ね合わせて見られるようになった。
 そもそも秘密にするのは困難だった。彼女たちを部屋に閉じこめて隔離するわけにもいかず、外を散歩したりといった運動も必要だったからだ。休学はしているものの、時間があれば彼女たちは学友たちと過ごすことを望んでいた。
 キャサリンの朗読をきいて、理奈は質問する。
「板に文字を彫るのが役目ってなんのこと?」
「直接的な解釈は、ルーン文字で呪文を刻むことよ。でも解釈のしかたによっては、運命という歴史を刻むことにもつながるわね」キャサリンは解説した。
「つまり、三人の乙女は、歴史を左右する存在だといいたいのね」とジャネット。
 キャサリンはうなずいた。
「そう。神話はまったくの架空の物語ではなくて、ある部分では事実に基づいているものよ。聖書も同様にね。もしかしたら、エッダの物語も実在した人物に由来するのかもしれないわ。三人の乙女はジャンパーだったのかも」
「ふうん。で、その神話にヒントがあるというわけ?」理奈は懐疑的だ。
「三人の乙女は、それぞれに時間をつかさどっているの。ヴェルダンディは現在、ウルドは過去、スクルドは未来よ」
「なんか、できすぎた話ね」と理奈。
 キャサリンは解説を続ける。
「世界を象徴する樹のユグドラシルは、宇宙そのものを意味しているわ。乙女はその樹の根元にある知恵の泉に住んでいるの。そして、樹には一匹の巨大な蛇が絡みついていて、樹をかじっている。蛇がやがて樹を倒してしまうと、世界は崩壊する。こういう終末論は、聖書の中にも見られるわ」
「蛇がミッシング・トリガー、というわけね。象徴的であることは認めるわ」理奈は肩をすくめた。
「でも――」と理奈は続ける。
「当面の問題は、あたしたちが子供をちゃんと産めるかどうかよ。それと、のぞみのこと。頼りない男たちはなにしてるのよ」
 ジャネットは苦笑した。
「ほんと、この子たちの父親は、まだ自覚がたりないわね」
 バタバタと階段を登ってくる音がした。
「噂をすればだわ」ジャネットは部屋の入口を指さした。
 慌ただしくドアが開けられ、アンドルーを先頭に光輝とゲーリーが入ってくる。
「気になる情報を――」アンドルーは口ごもった。
 少女たちがクスクスと笑っていたからだ。笑いが笑いを誘って、彼女たちの笑いはしばらく続いた。
「なにがそんなに可笑しいんだ?」アンドルーは怪訝な顔をした。
「なんでもないわ。ただ、可笑しいのよ」理奈は顔をほころばせながらいった。
 アンドルーはため息をついた。
「楽しそうだな。体調はいいのか?」
「ご心配なく。特に問題はないわ」と理奈。
「気になる情報って?」ジャネットは光輝に向かっていった。
 光輝はジャネットのベッドに歩みよって、縁に腰かけた。
「のぞみの行き先がわかったんだ。彼女は……」
「のぞみがどうかしたの?」理奈は真剣な表情になった。
 アンドルーが答える。
「例のJ3Kの中心人物である、高原の邸宅に行ったあと、ぱったりと消息が途絶えているんだ。中に入ったことまでは確認したが、出てきた痕跡がない。ずっと中に囚われているかと思ったんだが、そうでもないらしい。彼女は消えたんだよ」
「消えたって……。どこに?」
「転移したのかもしれない。あるいは転移させられたか。確証を得るために、問題の屋敷に潜入を試みるつもりだ」とアンドルー。
「武器がほしいところだが、日本では難しいな。SIGザウェルP229なんかがいいんだが」ゲーリーは右手を拳銃形にしてみせた。
「物騒なこといわないでよ。銃撃戦なんかあるわけないじゃない」ジャネットは眉をひそめた。
「わからないぜ。相手は正体不明の組織だ。裏でなにやってるか。丸腰で乗りこむのはリスクが大きいぜ。さすがの郷田さんでも、武器の調達は無理だろうなー」
「せいぜいスタンガン程度だね。それなら入手できるよ」光輝はゲーリーの案に乗じた。
「バカなことはしないで!」ジャネットは光輝をたしなめる。
「わかってるよ」光輝はジャネットの手を握った。
 理奈は掛けていた毛布を払いのける。
「理奈?」アンドルーは小首を傾げた。
「あたしも行くわ」
「それはダメだ。君は大事な体じゃないか。行くのはオレたちだけだ」
「あたしは病人じゃないの。バックアップくらいできるわ」
 アンドルーは理奈の肩に手を置く。
「だとしても、君たちは残っていてくれ。人数は少ない方がいいし、余計な心配はしたくない」
「女は邪魔だというの?」
「そうはいってない。君たちは君たちの果たすべきことをやってほしいだけだ。流産なんてしてほしくないんだよ」
 理奈はキャサリンとジャネットを見る。キャサリンはうなずき、ジャネットは同意の印に肩をすくめた。
「無茶はしないで。ちゃんと帰ってきてよ」
「もちろんだ」
 アンドルーは理奈にキスをした。キスを終えると、理奈は隣のキャサリンに人差し指を振った。アンドルーは体の向きを変えるとキャサリンにもキスをした。光輝はジャネットとキスを交わしていた。
「ちぇっ、オレだけお邪魔虫って感じだぜ」ゲーリーはぼやく。
 キャサリンは立ち上がり、ゲーリーに向かって微笑むと両手を差しだした。ゲーリーは彼女に歩みより、抱擁とキスを受ける。
「あなたも気をつけてね、ゲーリー」
「サンキュー」ゲーリーは微笑んだ。
「ドジ踏まないでよ」理奈は釘を刺した。
「ああ」アンドルーは答えた。
 少年たちは意気揚々と少女たちに見送られて部屋を出ていった。


 畏怖と困惑が沈黙の空気にさらに重くのしかかっていた。
 茫然自失の高原は、空を見つめたまま全身の力が抜けている。達矢は食いしばった歯を覗かせていた。御子芝と高千穂も驚きを隠せなかったが、のぞみは口をポカンと開けて、床に座りこんでいた。
 御子芝が高原の様子を見て、沈黙を破る。
「どうやら、ほんとうに知らなかったようだな」
 達矢は舌鼓を打った。
「いつからなんだ? と、きいても無駄か。奴らは人類に気がつかれることなく、入りこんでたんだろうな」
 高千穂が達矢のあとを受けて口を開く。
「寄生する奴は、宿主に気づかれないように同化してしまうものだ。意識転送と同じ理屈さ。
 人の脳の中に寄生するトキソプラズマは、一見なにもしないで無害なように振る舞う。だが、ときに人格を変えてしまうほどの影響を及ぼすんだ。男の場合には犯罪に走る傾向になり、女の場合には他人に対して従順になってしまう。道徳観念や危機意識が欠如してしまうんだ。トキソプラズマにとっては、人間は仮の宿主であり、寄生した個体を無防備にすることで、新しい宿主に乗り移ることを狙っているんだ。かつて精神障害のために凶悪犯となった者の中には、トキソプラズマに感染している者もいた。寄生虫が人格を支配するなどということが、まともに研究されるようになる以前のことだけどな。二一世紀の時点では、まだ認知度の低い事例だ」
 達矢は唇を噛んだ。
「いつからなのかはともかく、奴らは月の量子コンピュータに感染した。それは間違いない。いってみれば、奴らは電磁界寄生体だ」
「そして、奴らが狙っているのは人間への寄生というわけだな。電磁界メモリの中に保存されている、個々の人格意識はほぼ奴らの影響下にあると思った方がよさそうだ。魂の寄生虫ということもできる。気持ちの悪い話だ」御子芝は顔をしかめた。
「これは異星人の、あるいは未知の生命体の侵略なのだろうか?」達矢は問うた。
「それはたいした問題ではないと思うね。トキソプラズマが侵略の意図を持って寄生しているわけではないのと同じだ。ただの生存本能かもしれない」高千穂が答えた。
「だけど……」達矢は首をひねった。
「なぜ、奴らは植民計画として、人間への寄生のプロセスを記録として残しているんだ? 見てくださいといわんばかりじゃないか」
 御子芝はうなずいた。
「ふむ、たしかに腑に落ちない点ではあるな。むしろ、この情報もトラップのひとつなのかもしれない。われわれを欺く意図があるのかもな」
「私は……なにものなの……」
 弱々しい声で高原がいった。
「彼女も感染者なのか?」達矢は高原を指さした。
「そう考えた方がいいだろうな。だが、彼女の精神的ショックを考えると、意識のすべてを支配されているわけではなさそうだ」と御子芝。
 高千穂はうなずく。
「宿主を殺してしまっては寄生体も生きていけないからな。彼女自身の自我に同化しているんだろう。あるいは感染した状態で長く生きているうちに、変容してしまったとも考えられる」
 達矢はパンッと手を叩いた。
「やるべきことははっきりしたな。奴らの植民計画を阻止する。これこそがミッシング・トリガーだという気がするぜ」
「同感だ」と高千穂。
 達矢は続ける。
「奴らが排除しようとしている、ミレニアムイヴは侵略の障害になっているに違いない。もし、のぞみがイヴのひとりで、二一世紀に戻ることができたなら、この事実を知ったわけだから、奴らのことを警告するはずだ」
「ということは、私たちがここに連れてこられたのもうなずける。奴らは排除するつもりだったのが、じつのところイヴの条件を満たす状況を作ってしまったんだ。墓穴を掘ったわけだ」御子芝はいった。
「因果律の難しさだな。ニワトリを殺したら卵は産まれない、卵を潰したらニワトリは育たない。どっちが問題の解決になるかは、不確定なんだ」と高千穂。
「さてと、どうする? エデンを潰すか?」達矢は仲間を見まわした。
「電磁界メモリの感染を除去するか、もしくは破壊だな。場合によっては、数百億の魂を失うことになるが。これは大量殺戮になるのか?」
 高千穂の言葉に、達矢は苦悩を浮かべた。
「あまり考えたくないことだが、彼らは一度は死んだ人々だ。永遠の命を求めてのことだろうけど、魂の定義は難しいな」
「けどよ、もう一度肉体での生を得るために、他人の肉体を利用するなんてのは間違ってる」
「彼らを救う方法も考慮しながら、最悪の場合には……覚悟しよう」
 達矢は大きなため息をついた。
「最善を尽くすしかないだろう」
「現実的な問題として」と御子芝。
「武器がいるな。じつは目星をつけてあるのだ。ここから近い歴史資料館に、過去の武器を展示しているんだ。使えそうなものもある」御子芝は微笑んだ。
「わたしも……」しゃがみこんでいたのぞみが立ち上がった。
「……一緒に戦うわ」
 達矢はのぞみに歩みより、彼女を抱きしめた。
「ああ、のぞみ、君も一緒だ」
 のぞみも彼に背中に腕を回して、ひしと抱きしめる。
「うれしいよ、のぞみ。君が悪夢から目覚めてくれて」
「うん……達矢……。ほんと、わたしったら、悪い夢を見てたみたい」
「君のせいじゃないよ。誰だって自分が世界を滅ぼす原因になったなんていわれたら、まいっちまうよ」
「わたしは……わたしの子供は、忌むべき子供じゃないわよね?」
「そうに決まっている。君はきっといい母親になるよ」
「あなたは父親でしょ?」
 達矢は顔を赤らめた。
「それはこれからのことだよ。まだなにも始まってはいない。春奈の父親が誰であっても、君の子供ならやさしい子になると思うよ」
 のぞみは微笑んで達矢を見つめていた。
「おいおい、ラブシーンは早すぎるぜ。仕事を片づけてからだ」高千穂は冷やかす。
 達矢は抱擁を解いた。
「そうだな。奴らもすでに動き出していると考えた方がいい。先手を打たれる前に行動しよう」
 部屋を出ていこうとする四人は、高原に呼びとめられる。
「待って! 私も手伝うわ」
 達矢は怪訝な顔をした。
「あんたが? なぜ? 信用できないね」
「もっともだわ。でも……私は……自分が自分であることを確認したいの。自分ではないなにものかに操られているのではないことを。信用してくれなんていえないけど、私は利用できるわよ。人質にしてもいいし」
 達矢は高原の目をまっすぐに見つめる。澄んだ瞳には真摯な思いがあるように見てとれた。もし、のぞみがミレニアムイヴになるのなら、高原はそのきっかけを与えたことになる。意図したこととは異なっているが、彼女が関わっていることは確かなのだ。
 ふと達矢の頭の中を、ブリトニーの歌の一節がよぎった。

“自分が誰だか確かめるために間違いだって犯すの
 だからそんなに守られていたくないの
 他の道があるはずよ
 何だって確かめてみるべきだって信じているから
 でも私は誰なのか
 何をしたらいいのか
 神さま答えて教えて”

「あんたはエデンを裏切るというのか?」達矢はきいた。
「結果的にそうかもしれないけど、私はエデンを救いたいのよ。ここは人間が求め続けてきた楽園なのだから」
 彼女は「人間」という言葉を強調した。
「あんたが感染していたとしても、その人間性は信じたいと思うよ」
「ありがとう。エデンを支配しているのは、枢機評議会よ。彼らを潰さなくては、エデンもあなたたちも救えないわ」
「ところで、時空確率転送機はあるのか? おれがいってるのは、肉体も転送できるタイプのことだ」
「ええ、それも歴史資料館にあるわ。使われなくなって久しいけど、稼動できる状態に保存されているから、パワーさえ確保できれば使えるはずよ」
「よし、それが頼みの綱だな」
 達矢は御子芝と高千穂に、意見を求める目を向けた。ふたりはうなずいた。
「いいだろう。一緒に来いよ。怪しい動きをしたら、容赦はしないぜ」
「ええ、承知しているわ」
 彼らはエデンの見せかけの楽園を打ち砕くべく、行動を開始した。

〈つづく〉

諌山 裕 mail url 2002/06/10月04:59 [36]
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